蟲師で思い出す

 
年末年始も関係無い職場なので、勿論ゴールデンウィークも関係無く目一杯仕事。
 
現在早く休日来てくれー状態。
 
 
 
 
前回の休日に大人買いをしておいた 蟲師を読み
 
一巻の初めにあった〝緑の座〟という話しで、色々思い出したり考えたり。
 
 
 
『半分をあちら側に置いてきてしまったんだ』 という台詞に、妙に考えさせられてしまった。
 
そう…私ビジョンで視るドロドロになってしまった〝あちらの人〟は、まさにそういう感じなんですよね…。
 
半分どころか、一部のみがこの世に残ってしまっているから人の形を保てないのかな?…と。
 
ただ、私自身が霊能者じゃないからドロドロに視えるだけなのかもしれませんが(笑
 
 
 
廉子ばあちゃんの感情・感覚が流れ込み、しんらが泣くところ(ページ)につい自分を重ねてしまった。
 
漫画の中のしんらは、『あれ どうしたんだろ僕…』 と、漠然としたばあちゃんの悲しみの感じ取りだったけど
 
私の場合〝流れ込み〟があった時、その人自身になってしまいながらも
 
ちゃんとイソラとしての意識もあるという、みょ~な体験(?)をしてしまう。
 
 
 
〝あちらの人〟の感情の、小さい(軽い)流れ込みは幼少の頃からあったけれど
 
大きなものに初めて遭遇(?)したのは、中1になったばかりのある日。
 
 
 
その日、家には私一人。
 
部屋の空気が変わり 「あれ?」 と思った次の瞬間
 
周りが薄暗くなり 『あーちゃん たぁけて。 あーちゃん たぁけて。』 という声と共に、目の前に小さな子供が現れた。
 
そのとたん、締め付けられる胸の痛みと同時に〝誰か〟の意識が入り込んで来た。
 
 
 
その子の母親だ。  そして〝私〟はその子の母親になった。
 
泣き叫ぶ〝我が子〟の髪が燃え出し、母である〝私〟の堪らない気持ち。
 
〝私〟の髪にも火がつく。
 
〝我が子〟を抱き寄せようと必死になるが、身体が動かない。
 
どうやら何かに挟まれているようだ。
 
その部分の〝母親〟の感覚は欠如していたので、感情部分の流れ込みが主の様だ。
 
子供は 『あーちゃん あーちゃん』 と走っているのに、いっこうに〝私〟の所に近づいて来ない。
 
 
 
イソラとしての意識が、子供が視せる〝その時〟の状況と
 
母親からの意識の流れ込みとの2点である事を判断する。
 
 
 
〝我が子〟が炎に包まれるのと〝私〟が炎に包まれたのがほぼ同時なのに
 
何故か〝我が子〟の絶命の瞬間が目に入った。
 
その時の張り裂けんばかり胸の痛み。 恨み・嘆きの感情に気が狂いそうになった。
 
 
 
喉が焼け付く熱さ…というより痛みと苦しみ。
 
全身を焦がす痛みに耐え切れず、イソラとしての意識を失いかけた時
 
身体が軽くなり周りが明るくなった。
 
 
 
どうやらあまりの苦しさに、私の中の〝母親〟を弾き飛ばした様だ。(防衛本能か?)
 
汗をびっしょりとかき、両腕を見ると血が滲んでいた。
 
たぶん突っ立ったままで体験して、苦しさの為両腕に爪を立てていたのだろう。
 
そして私は泣いていた。
 
 
 
今でも、あの時の光景を思い出す。
 
今でも、あの時の子供の声が耳に付いて離れない。
 
 
 
 
この日から、年に何度かはこういった大きな〝流れ込み〟を体験するようになった。
 
 

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イソラ
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